2001/09/01(Sat)−−−私立江珂大学女子学生寮『斑鳩 -Ikaruga-』 ２０７号室
土曜日の気怠い朝、掠れた意識の向こうで、聞き慣れた声が聞こえてくる。
「姉貴、あたしもう出掛けるからね。ちゃんと使った食器は、ウォッシャーに入れといてよ。」
妹の代歩の声だ。
「ふ〜ん、わかったー」
聞き慣れているのは当たり前だと悪態を吐きながら、布団の中から寝惚け眼でそう答える。
「それから夕食も食べてくるから。」と言いながら代歩は、ダイニングルームに据え付けられている、ＶＰ(ヴィジュアルフォン)の留守番電話機能をＯＮにした。
「は〜い」
その声に、いかにも布団の中から適当に返事をしました。と言う声が返ってきた。
「ホントに分かっているのかな？ まぁいいや、行ってきま〜す！」
ＬＹＮＵＳのブーツに足を通した代歩の後ろで、にゃ〜んと愛猫の声がした。
「あっ、たらふくも行ってきま〜す。」
エントランスの扉が静かに閉じて、ロックが掛かる。
饒舌な妹が去り、落ち着きを取り戻した室内。
しばらくして、「さ〜て、もう一眠りしよう・・・」と綾美夏が寝返りを打つ。
「しまった、今日はデートだった。」
『-隻胸の天使- Inspired by ｢ＮＯëＬ -NOT DiGITAL-｣.』
Original Written by Akihiro Inda. Cooperated by Noron & Deroderorin.
ここは私立江珂大学の女子学生寮。
この大学には女子高等学校が併設されていて、妹の清水代歩(しみず かほ)は、その私立江珂大学付属高等学校に通っている高校３年生。
この学生寮は大学のものだが、高校から大学への進学率が８０％と高いこともあり、高校へ通っている者も希望すれば入寮することができる。
そして姉の清水綾美夏(しみず あやみか)は、前日の金曜日の夜から、妹の学生寮に泊まりに来ているＯＬ。
全高４００ｍを越える３つの巨大なタワーが、ちょうど正三角形を描くよう建立されているトリオニアタワー。
そのトリオニアタワーの一つ、８５階建てのアクアタワー。
その２４階の大ホール内に建立された、私立江珂大学付属高等学校。
同じく、アクアタワー２５階の大ホール内に建立された私立江珂大学と、その女子学生寮。
ここは綾美夏の、東京臨海区に於ける活動拠点なのだ。
東京臨海区、それは東京湾に浮かぶ東京都２４番目の区。
ＥＡＤＰ(East Asia Development Project 東アジア開発計画)の一つ、環境モデル都市として計画された、南北に約１１Km東西に約１８Kmの巨大なメガフロート。
DiGITAL と NOT DiGITAL が交錯する時代。
時は西暦２０１４年 ２月・・・
−−−私立江珂大学女子学生寮『斑鳩 -Ikaruga-』 ２０７号室 ユニットバスルーム
シャワーを浴びる、一糸纏わぬ姿でシャワーを浴びる。
この瞬間、綾美夏はいつも二人の綾美夏になる。
「そんなことは忘れたよ」と胸を張れる綾美夏と、片方の乳房を喪失したことに、いつまでもコンプレックスを抱き続けている、胸を張れない綾美夏とに・・・
５年前に乳癌で左の乳房を摘出した。
もう５年も前の話なのに、未だにそのことを引っ張っていて・・・
（だから男と付き合うのが面倒なのかな？）
「だから２８になっても結婚できないのかな？」
その言葉が思わず口から出てしまった。
そんな自分が悔しくて、シャワーの勢いをきつくする。
（シャワーはいい、泪を誤魔化せるから…）
−−−臨海ライナー「中央ターミナル」ステーション 改札内
東京臨海区と本土を結ぶ区民の足、「臨海ライナー」。
全世界的に内燃機関が撤廃されてから、早３年。
ソーラーパワーによるリニアモータと、コンピュータ制御による２４時間無人運行は、もはや当たり前のものとなっている。
土曜日のお昼前、人気の少ないステーション構内の階段を、慌ただしく駆け上がるショートヘアーの女がいた。
改札内で彼女を待ちかねていた、解語の花が二輪。
先程の清水代歩と、セミロングの佐野倉恵壬(さのくら えみ)だ。
「・・・ごめん」と、息を切らせながら気まずそうに頭を下げたのは、大きな眼鏡がよく似合う岡野由香(おかの ゆか)だ。
「これで行き先は、横浜のＢＳＰ(Bay Side Pools)に決定ね。」と、由香が今駆け上がってきた階段を下りようとする代歩。
「またなの？…今年に…入ってからもう…何度目？」
肩で息をしながら、代歩に反論する由香。
「あれだけ言ってたのに遅刻しておいて… それにもうあたし、下にスイムウェア着ているんだから」と言って代歩は、メトロノームのように右手の人差し指を振ってみせた。
「そんなぁ…恵壬からも…何か言ってやってよ」
「まぁ今回も、由香が遅刻してきたことだし…」
伏せ眼がちな恵壬の顔色を、由香がまじまじと窺う。
「恵壬。さてはケーキで買収されたな？」
はにかんだまま俯いてしまう恵壬。
「バレたか」と、可愛く舌を出す代歩。
「だって恵壬は…すぐに顔に出るから…」
−−−ベイタワー 最上階 オブザヴェイトリルーム(展望室)
トリオニアタワーの一つ、１０２階建てのベイタワー。
西暦２０１４年現在、世界一の高さを誇るこのビルには、図書館などの公共施設と、エネルギー系及び外資系企業が収容されている。
土曜日の昼下がり、人気の少ないオブザヴェイトリルームを駆ける、ショートヘアーの男がいた。
オブザヴェイトリルームで彼を待ちかねていた、解語の花が一輪。
「・・・ごめん」と、息を切らせながら気まずそうに頭を下げたのは、藍瀧雅郁(あいたき まさいく)だった。
「これで『オリエンタル・パーク』は決定ね」
「…ここのプールは行かないの？」
「行かない」
「折角…綾美夏の水着姿…見られると思ったのに…」
「あたしの水着姿は高いわよ」と言って綾美夏は、メトロノームのように右手の人差し指を振ってみせた。
「給料日前なんですけど… 矢っ張りここの温水プールにしない？」
「しない。 それに、何アナクロニズムなこと言ってるのよ？ トリオニアタワーではどこに行ってもＩＣカードしか使えないのに」
「バレました？」と、雅郁。
「当たり前です」
二人はどちらともなく、頤を解き合った。
（矢っ張り男って面倒・・・でも）
−−−ケープタワー １Ｆ 『オリエンタル・パーク』
トリオニアタワーの一つ、ケープタワーには、区役所や税務署などの公共・行政施設が収容されている。
半分の敷地をケープタワーの中に、もう半分の敷地をケープタワーの外に持つ、屋内屋外複合型のテーマパーク。
トリオニアタワーという土地柄から、ハイティーン以上をターゲットとしている。
「…乾杯」
互いの持つクラシックビア缶の端が、キスを交わす。
アロマポップの爽やかな苦みが、唇を湿らす。
「今日も愉しい時間をありがと」
「こちらこそ」
ジェットコースタの向こうに、赤い夕日が沈んでいった。
（…矢っ張りあたし、この人のこと好きだよ、大好き）
今の綾美夏に、コンプレックスという堕天使は似合わない・・・
−−−トリオニアタワー中央通り
ベイタワーからアクアタワーとケープタワーの間を抜け、海岸沿いのランディングステージ(浮き桟橋)までを結ぶこの大通りは、日が沈んでも黒山の人だかりで賑わっている。
その渦中を文字通り姦しい、けれども、そんな負のイメージとは無縁な女子高生３人が、プラタナス並木を横目に、ランディングステージを目指して歩いている。
「すっかり暗くなっちゃったわね」
「そうね」
「恵壬がカフェをはしごしようって言うから」
代歩が恵壬に悪戯な眼差しを注いでいる。
「代歩だって由香と一緒に賛成していたのに」
「あたしは恵壬がどうしても。って言うから仕方なく…」
「仕方なく？ あんなに眼をキラキラさせていたのに？」
「キラキラ？ あたしが？ そんなまさか」
今まで沈黙していた由香が冷静に、けれどもどこか嬉しそうに口を開いた。
「そうね代歩、あとでビデオレターで送ってあげるわ、代歩のキラキラ。『思い出くん』飛ばしておいたから」
「えっ？ 『思い出くん』飛ばしてたの？」
「うん、ほらココに」
由香が左手を前に差し出すと、まるで蛍が甘い水に引き寄せられるようにして、空からふわりとドリアン大の浮遊物が降下してきた。
『思い出くん』、正式名称「Parsonal Auto Navigator Camera System」。
由香が私立江珂大学付属高等学校科学部の技術を結集して創り上げた、浮遊型自動追尾式ビデオカメラのことである。
同じ科学部の大野愛とともに、某国のシステムをクラッキングして入手したテクノロジーが応用されているらしいと。まことしやかに囁かれている。
「し、知らなかった・・・」
代歩の頭の中には、今日一日のはしゃぎようが、走馬燈のようにメリーゴーラウンドしている。
「でも、イヴェントでもないのにどうして？」
恵壬が何かに気付いたのか、眼鏡の奥の瞳を窺う。
「バッテリを新素材に替えてみたんだ、だからそれのトライアルも兼ねてね」
「 でも…それだけじゃないでしょう？」
しばしの沈黙・・・
「そうだね。その名の通り、私たち３人の思い出が欲しかったのかもしれないね」
その由香の一言で、暖かい微笑みが３人を包み込んだ・・・
「もう来月で、卒業なんだよね」
誰が言い出すでもなく３人は、改めて「卒業」の重さを受け止めていた。
「さぁそろそろ帰らない？ あんまり遅くなると、また姉貴が五月蠅いからさっ」
「そっか、今代歩のところ、お姉さんが来ているんだ」
「そうよぉ、毎週毎週週末になると妹のところにくるって言うのは、私には彼氏がいませんよぉ！って宣伝しているのね、きっと」
代歩がそう断言した。
「代歩ってひどーい」と、由香が笑う。
「まぁ、そんなこと解らないわよ」と、恵壬は悪戯な笑みを浮かべた。
「解るわよ、２８にもなってそんなのって、絶対にあれはいき遅れるタイプね」
本人がいないことをいいことに、そう自信を持って言い切る代歩と、呆れ顔の恵壬。
（これが実の妹が言う台詞かしら？ 自分だって彼氏いないのに・・・私はいるけど）
（代歩ってば言いたい放題。 自分だって彼氏いないのに・・・私はいるけど）
（言い過ぎちゃったかな？ 由香や恵壬も彼氏いないのかな・・・私はいるけど）
その時由香が通りの反対側に、知り合いの姿を見付けた。
「ねぇ代歩、あれってそのお姉さんじゃないの？」
「？」
由香が示す先へ眼をやると、そこには姉貴の姿があった。
見知らぬ男性に寄り添う、綾美夏の姿が・・・＜ 淋 し い ＞
刹那だけどそう思った…
−−−ホテル『ドリーミング』 ４１１号室
「今夜はやけに準備がいいのね」と、焦り顔の綾美夏。
「たまにはこういうのもいいだろう？」と、澄まし顔の雅郁。
「た・ま・に・は、ねぇ・・・」
「俺、先にシャワー浴びたい。いいだろう？」といいながら、ベッドの上に自分の鞄やコートを脱ぎ捨てる。
「えぇいいわよ」（レディファーストという言葉を知らないの？雅郁は）
「じゃぁ準備しておいてくれよ」
そう言って雅郁は、半ば無造作に磨りガラスの扉を閉めた。
すると、それまでは気丈にしていた綾美夏だったが、磨りガラス越しにシャワーの音が聞こえてくると同時に、気が抜けたようにしてその場に崩れてしまった。
（どうしよう… またあたし、嫌われる！）
今の彼女の中には、二人の綾美夏が鬩ぎ合っている。
「そんなことは忘れたよ」と胸を張れる綾美夏と、片方の乳房を喪失したことに、いつまでもコンプレックスを抱き続けている、胸を張れない綾美夏とが・・・
（このままじゃ、また同じだよぉ…）
慄える彼女の中で、勇気という名の天使が藻掻いていた。
−−−臨海ライナー環状線 車内
二人と別れた由香が一人、臨海ライナーに揺られていた。
（代歩って、お姉さんに彼氏がいたぐらいで、どうしてあんなに驚いていたんだろう？）
車窓の向こうでは粉雪が横に流れ、その向こうには、東京湾ベイエリアの夜景が広がっている。
「『思い出くん』はどうしてだと思う？」
由香は足許に置いていた『思い出くん』を持ち上げて、眼の高さを合わせた。
−−−ホテル『ドリーミング』 ４１１号室
綾美夏が部屋の明かりを一つ落とす、一つ落とす、一つ落とす。
着ているものを一つ脱ぐ、一つ脱ぐ、一つ脱ぐ。
もう身に着けているものと言えば、ラピスラズリでできたイヤリングぐらいだ。
でも、脱ぎ切れていないものが一つある。
それは、コンプレックスという名の堕天使。
「大丈夫かな？…あたし… 代歩…助けて…」
綾美夏は暗いベッドの上で、自分で自分の両肩を抱きしめていた。
−−−東京臨海区内 佐野倉家 Emi's ROOM
自室に戻った恵壬。
（代歩って、お姉さんに彼氏がいたぐらいで、どうしてあんなに驚いていたんだろう？）
ふと、窓の外に眼をやると、微かにだが粉雪が舞っていた。
「あっ、雪だ・・・」
しんしんと粉雪が降り積もる。
−−−ホテル『ドリーミング』 ４１１号室
雅郁がシャワールームから上がってきた。
「綾美夏も浴びるだろう？」
「明かりを消して」
その声は、間違いなく綾美夏のものだったが、雅郁がこれまでに聞いたことのないような声だった。
「どうしたの？」
「いいから消して…」
その豹変振りに驚きつつも、雅郁は無言で綾美夏に従った。
「 手を…貸して」
眼の慣れない暗闇から、白皙の冷たい手が彼の両手を包み込む。
「綾美夏・・・」
（勇気を持って）
綾美夏は慄えながらも、彼の両手を自分の両胸に押し当てさせた。
今の綾美夏は何も身に着けていない。
だからこそその両手には、懐かしい母の感触が伝わってくる…筈だった。
だがその感触は、右の手にしか伝わってこなかった・・・
驚きを隠せない雅郁の手の甲に、ひとひらの泪がこぼれた。
まだ暗闇に眼が慣れていないが、雅郁にはそれが綾美夏の泪だとハッキリ解る。
「別に隠すつもりはなかったんだけど・・・」
泪の蹟に、大粒の泪が弾ける。
彼の心の中にも泪がこぼれた。
（どうして気付かなかったのだろう？
違う、どうして気付いてやれなかったのだろう？
綾美夏はずっとこのことを悩んでいた筈なのに・・・）
「あたし、吹っ切れていたつもりだったんだけどね…」
声をしゃくる綾美夏。
「泪が止まらない」
「…俺、気付いてやれなかった。綾美夏、言い出すの、辛かっただろう？」
彼は項垂れた。綾美夏と眼を合わせていられない。
「そんなこと…あるかな？」
自然と彼の手が、綾美夏の胸の瑕疵から離れていく。安らぎだった温もりが遠離っていく。
「…ごめん」
「どうして謝るの？」
「解らない。 でも、ごめん」
「ううん・・・」
徐々にだが暗闇に眼が慣れてきた。
暗闇の中に彼女の泣き顔が見えてきた。
太陽の光とは違う明るさが、今の綾美夏にはある。
「えっとね、こんな贋者のあたしだけど、抱いて…くれるかな？」
泪に屈託のない笑顔、綾美夏は今確かに自分の腕の中にいる。
気が付くと、綾美夏の細い身体を、強く抱きしめていた。
「当たり前だろう…」
熱い抱擁。
もう堕天使は、綾美夏の中にはいられない。
空に向かって消えていくしかない。
そこには今、好きな人の腕に抱かれる、-隻胸の天使-しかいないから。
（やったよ、代歩・・・）
暗闇に、白い翼が音もなく羽ばたいて・・・
−−−私立江珂大学女子学生寮『斑鳩 -Ikaruga-』 ２０７号室
「ただいまー、と言っても返事はないわよね…」
エントランスで誰に言うでもなく、代歩が一人呟く。
にゃ〜
すると部屋の奥で、二つの瞳が光った。
「…そっか、たらふくがいたんだ。ただいま、たらふく」
だが、その二つの瞳はそっぽを向いた。
「なんなのよ」
にゃ〜
部屋の向こうにたらふくが消えていく。
ＬＹＮＵＳのブーツを脱ぎ、そのたらふくを追うようにしてダイニングルームに入ると、ＶＰの「◎留守録メッセージあり」インディケーションが点滅していた。
「さては、モニタに映った彼に妬いていたんだな。おませなたらふくちゃん」と言いながら、ダイニングルームの明かりを付けた。
その明るさにたらふくが吃驚して、ダイニングルームから逃げ出す。
そのたらふくの後ろ姿に、先程までの自分の姿が重なる。
「…あたしも嫉妬していたんだな、きっと…」
ＶＰの「→メッセージ再生」ボタンに、紅に染まるマニキュアが重なった・・・− ｆｉｎ −
1996,2001 Akihiro Inda. ALL RIGHTS RESERVED.
[ 作品解説 ] [ 【短篇小説】『-隻胸の天使-』 ]